話をうのみにしてはいけない

知っている人には当然だが、歴史小説は文学・創作である。史学・史実を下敷きにしているかもしれないが、そのものではない。大河を含むドラマや映画も同じだ。そのことに本来はなんの問題もない。しかし、創作であることを忘れてしまうと問題になる。


日本の戦国時代に、「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」が命を捨てて使命を果たしたという話がある。これは創作だと思う。なぜなら、紀元前に書かれた「史記」に酷似した話があるからだ。

この件に関して Wikipedia では創作だと明言していないが、創作だろうと暗示していると筆者は解釈する。根拠は、「鳥居強右衛門」のページにある下記、およびリンク先にある各記録の性質(『信長公記』は史料として比較的信用できる、など)の記述である。

なお、強右衛門の記録のうち最も古いものは『甫庵信長記』、次いで『三河物語』で、それ以前の『信長公記』などには全く登場しない。

上記だけでは判然としない。しかしリンク先をよく読めば、「それ以前の『信長公記』などには全く登場しない」に隠された意味が分かる。こういうのを「大人の対応」と言うのだろう。この記述であれば、反発する者がいたとしても安易なことはできない。やぶをつつくことになってしまう。

一方で筆者の記事は反発を受けるだろう。金銭的利害関係者よりも、鳥居強右衛門のエピソードに感銘した人に恨まれるはずだ。では、なぜ書いたのか。物事は別の角度から見ると全く違う印象になり得る。文章をよく読むと見方が変わるいい例だと思ったからだ。


話し手は創作をしなくても印象を操作することができる。以前、日本経済新聞にこういう話(あすへの話題「枯れない花」筆者・内館牧子)があった。手元に原文がなくメモからの要約だが、原文を損なってはいないはず。


(要約始まり)

喜寿を迎えたA子さんの誕生会があった。加工した生花を贈られたA子さんが言った。「これ、枯れない花だわ!」

男が言った。「アタシは枯れちゃったけどな、ってか」

その場は一瞬静まり返ったが、A子さんは笑顔で絶妙に対応して拍手に包まれた。その後、男は消えた。初対面の代理出席だったらしい。

(要約終わり)


この女性はろくでなしによく切り返した、というのが一般的な印象だろう。しかし、筆者はこの話に引っかかるものを感じたのでよく読み直した。

違和感のひとつは「初対面」という表現だとわかった。たしかに初対面でこのような言動はひどい。だが、このことは女性が著名な人物であることを示しているのではないだろうか。誰だろうか。

さらに読み直した。偶然かもしれないが、枯れない・枯れちゃった、という表現で「ぬれ落ち葉」という言葉を思い出した。


あくまでも推測で裏付けは取っていないが、この女性は樋口恵子氏だと思う。根拠は以下の通り。

  • 誕生日が新聞記事の日付に近く、つじつまが合う。
  • 誕生年は新聞記事の喜寿と合わない。ただ、本来の喜寿の前に闘病をしていたようだ。先送りしたとすればつじつまは合う。
  • 「初対面の代理出席」ということから、女性は著名人であろう。
  • 初対面の男性から恨まれていた可能性がある。女性が著名人であり、恨まれるような言動をしていたのであれば納得できる。
  • これは直感だが、「枯れない・枯れちゃった」という表現からは「ぬれ落ち葉」というにおいがする。
  • 樋口氏と文章を書いた内館氏は共に放送ウーマン賞を受賞しており、つながりがあってもおかしくない。

もし樋口恵子氏であれば、筆者の見方は90度変わる。文中の男性の言動はひどいが、無差別ではない。樋口氏は「ぬれ落ち葉」という言葉が、男性に対して広く使われるようになるきっかけを作った。それを踏まえれば、どっちもどっちであろう。人によっては180度変わるかもしれない。

筆者の推測は見当違いかもしれない。それも含めて内館牧子氏や樋口恵子氏にも言い分はあるだろう。しかしそれ以上に、くだんの男性にも言い分があるはずだ。なお、そんな昔のことを持ち出すのはおかしいという言い方はやめたほうがいいだろう。評論家として知られる樋口氏の言動を否定することになりかねない。


比較的信用できる媒体とされる新聞であっても、うのみにしてはいけない。当サイトも含め、その他の媒体も同じである。