座れない原因は、だれにあるのか

以前述べたことについて補足する。

筆者は、早稲田大学が小保方晴子氏の博士号を取り消したことを支持する。しかし同時に、早稲田大学は小保方氏に課程で受け取った費用を返還すべきだった。後からよく読んでみたら博士論文と認められないというのは、まともな課程ではない。

小保方氏の博士号はただちに取り消されたのではなく、論文再提出の機会が与えられた。このことに公平性の確保や温情を感じた人がいるかもしれない。しかし、金を返したくない、組織を守りたいというのが真の動機だと思う。


小保方氏を擁護するわけではない。STAP細胞はあるのかないのか? そういう質問をするから答えが発散してしまう。STAP細胞の研究に予算をつけるべきか否かと問うべきだ。答えは、見込みがなく割に合わないと収束する。

そんなことはない、予算をつけろという考えを全面否定はしない。しかしそういう人達は、なぜ集まって出資しないのだろうか。日本人の1%が千円ずつでも、相当な額になる。

STAP細胞に限らない。自分の賛同するアイデアに大多数が反対するのは、むしろ朗報である。割のいい宝くじを独占できるチャンスが到来したということだからだ。おいしい宝くじを買わない愚かな他人を憐れむならともかく、不満を感じるというのは奇怪である。本心では信じていないとみなされるのが当然であろう。


データのねつ造はあってはならない。では、防ぐにはどうすればいいのだろうか。研究者への倫理教育が決定打とは思えない。それだけでは足りない。差別主義者は悪人だと言い張っても、差別が解消しないのと同じだ。

プレゼンテーションに振り回された側も、変わらなければならない。実態を評価すべきである。もちろん大半の人は研究の評価はできない。しかし、「評価をする人やシステム」を評価すること(メタ評価)、あるいはメタメタ評価はできる。これは研究組織・行政・政治・主権者である国民の役割である。自分は無関係だと逃れることはできない。


いす取りゲームで、座れなかった人がいる。なぜその人が座れなかったのか。その人に大きな原因がある。一方で、なぜ座れなかったのか。参加者全員にすべての原因がある。両方を見なければならない。片方だけしか見ないのは、くさいものにふたをする責任放棄である。

博士になったとしても、ふさわしい待遇の職は乏しい。そういう説明は十分だったのだろうか。大学は博士を養成するよりも、博士課程にともなうポストと金と労働力に関心があったのではないか。人を食うようなことをした結果、それに適応した人物が生み出されてしまったのではないか。

早稲田大学だけに限らない。また、研究者にも限らない。労働力を除けば、法科大学院にも似た構造を感じる。最近、大学人から国の締め付けが厳しいと訴える声が聞こえてくる。しかし、一般の目は冷たい。こういうことに気づいているからだと思う。


小保方氏は研究職をやめて文筆業で身をたてるらしい。小保方氏が現時点で刑事責任を問われていないのは承知しているが、その上でオー・ヘンリーや佐藤優氏の例もある。フィクションである限り、期待できる。

期待できることなど何もない、と言う人がいるかもしれない。しかしそれでは、プレゼンテーションに振り回されるのと同じだ。小保方氏だからといって全てを否定しないのが、実態を評価するということである。そういう態度をとれないことが、不正や差別を生み出しているのではないか。