「雑記」カテゴリーアーカイブ

賛成でも反対を封じない

筆者は、ロシアによるウクライナへの侵略に反対し抗議する。「唇亡びれば歯寒し」。日本は可能な限りの対応をとるべきだ。

また、ウクライナ・ゼレンスキー大統領による日本の国会でのリモート演説が行われることを支持する。(演説内容についてはまだわからないので、なんとも言えない。)

その一方で、演説が行われること自体を反対する意見があってもいい。さらに、その反対する意見を批判してもいい。ただしお互いに、レッテル張りなどの感情的にあおるようなやり方は慎むべきだ。

自分が気に入らない意見を抹殺するのは、権威主義のやり方。ミイラ取りがミイラになってはいけない。

起きなかったことにも着目せよ

東京電力旧経営者は原発事故に対して刑事責任を追及されており、明日9月19日に一審判決の予定である。

有識者によると、「津波や事故の予見可能性は有ったのか、無かったのか。」が問われているようだ。しかしそういう問いにとどまるのは、裁判官のさじ加減に委ねることだろう。では、どのように考えればいいのか。まず、別の事故を例にあげる。


青函連絡船「洞爺丸」は台風で沈没し、多数の死亡者を出した。一方で「羊蹄丸」の名前を知っている人は少ない。羊蹄丸は洞爺丸と組になった青函連絡船である。洞爺丸が函館を出港した時は、青森にいた。洞爺丸が沈没した海域で、羊蹄丸はだいじょうぶだったのか。ほとんど問題なかった。出港せずに港にとどまったからだ。

洞爺丸の事故は運が悪かったのか。それもあると思う。しかし、単なる偶然ではない。羊蹄丸の無事が証明している。なお、優先すべきなのは人命であり、過剰な自信は有害だ。筆者はタイタニック号に乗りたくない。


地震や津波による影響で破滅的な事故が起きたのは、福島第一原発のみだった。では、福島第二・東海・東海第二・女川はなぜ起きなかったのか。偶然か、必然か。

以下は報道等をもとにしているが、筆者の感覚である。そうであっても、もしこの説を立証できたとしたら、被告人には刑事責任があるとしていい。

  • 福島第二原発では、破滅的な事故は起きなかった。しかし、それは幸運だったからで、危ういところだった。
  • 東海・東海第二・女川原発では、破滅的な事故は起きなかった。たしかに幸運も味方したが、必然だったとしていい。

東京電力旧経営者には、多少は同情の余地があることは認める。羊蹄丸、正確には羊蹄丸船長には少し問題が発生した。なぜ出港しないのかと文句を言う連中である。本当は彼らこそが洞爺丸の事故を起こしたのだが、責任を問われることはない。そのような自覚すらできないであろう。

有数の大企業経営者と言えども、しょせんは雇われの身。多額の報酬をもらっていても、あくまでも代理人である。原発事故の原因となった者は、他にもいる。しかしながら、嫌ならやめればいい。よって、刑事責任を負うべきであると思う。

くやしいなら、地道な努力をすべきである

引用始まり

2019.9.1 (日)読売新聞・朝刊24面・書評
「帝国」ロシアの地政学
小泉悠 著
評・篠田英朗

(省略)

また、プーチン大統領によれば、ロシアやアメリカ、さらに中国やインドは主権国家だが、日本やドイツは主権国家とは言えないのだという。自己決定への制約が大きいからだ。

(省略)

引用終わり


日本はアメリカに比べれば自己決定への制約は大きいだろう。それは日本にとって望ましいことではない。したがって、自己決定への制約を小さくしようと努力すべきである。

とは言え、今ある問題は待ってくれない。日本が主権国家であることに疑問がわくような行為をしていいのか。そうした行為自体が国益にマイナスかもしれない。しかしそれを避けようとして、より大きな国益を失うとしたら本末転倒である。

日本が主権国家ではないと言われたら腹立たしい。そういう感情を否定するわけではない。むしろ、尊重すべきだ。しかしながら、腹立たしい意見に条件反射してはいけない。自己を損なってしまう。もしかしたら、相手の思うつぼかもしれない。

新元号に関する懸念は杞憂だった

以前の記事について補足する。以下には裏付けのない推測が含まれている。ただし、そう思った根拠は説明する。

新元号を各国に通知するという報道で思ったのだが、おそらく政府も筆者同様の懸念は持っており十分な配慮をしていた。しかも漢字を使う中国語だけでなく、各国のすくなくとも公用語については可能な限り調べたと思う。

ではなぜ筆者は政府の認識が足りないのではないかと懸念を持ったのか。政府の配慮が伝わってこなかったからだろう。ではなぜ伝わってこなかったのか。

各国語の調査など若干名で行えるものではない。多くの人物、たとえば外務省の職員がたずさわっていたのではないか。つまり、一般に思われているよりも多くの人が新元号を事前に知っていたと推測する。そのこと自体は問題ない。問題なのは、そのことが伝わってこないことである。

報道によると、有識者懇談会のメンバーは短時間ではあるものの外部との接触を制限されたそうだ。事前にそういう条件でメンバーになっているのかもしれないが、軟禁という批判があってもおかしくない。現に野党出身の国会副議長は反発している。これは政府の希望に対して、自発的に対応するということでおさまったようだ。しかし、少数ならまだしも多くの行政職員が事前に知っていたとなると、話がこじれたかもしれない。

これはあくまでも推測であり、実際のところはわからない。ただしこの推測が誤っているのであれば、政府の配慮は十分でなかったことになる。

新元号の発表はつつがなく行われた。しかし、その要因として政府の秘密主義、すなわち国民を対立する存在としてとらえる発想があったのは残念である。

以上は懸念が杞憂だった言い訳だ。


新元号そのものについての批判はない。「令」は命令を意味するというのは、言いがかりだと思う。そのうえで、「令」が命令を意味したとしても問題はない。国民と国・政府の関係において、「令」の主語はだれか。当然に国民である。突飛な発想ではない。株主と会社・経営者の関係と同じだ。この思想については、別途くわしい記事を書きたい。

制定の経緯については思うところがある。有識者懇談会のメンバーは政府が選んでいる。予算を握られている人が、新元号について政府の意向に沿ったとしても驚くことではない。別の大義があるだろうから、筆者は批判しない。批判すべきは、そのような指摘をできないマスコミ等のほうだろう。


和を尊ぶというのは己の主張をしないことではない。そのうえで、中西氏の言動は新元号の「和」という精神を体現しているだろうか。これについても思うところはあるが、「和」に反しているとまでは言えない。

批判に対してまともに反論しているという点は評価する。この点では「和して同ぜず」を体現している。国会での与野党ならびに新元号を制定した現安倍政権は、見習ってほしい。


新元号については筆者の思い込みを覆すことがあった。たとえば、今年は西暦何年・平成何年で間違いなかったかと思うことがある。特に新年1月は間違いが起きやすい。そういう時どうすればいいか。西暦と和暦を変換する計算方法について詳しいサイトはすでにある。ただ、それらの計算方法は筆者のニーズにとって大げさだ。

もし間違えるとすれば、ほとんどの場合1年のずれである。西暦と平成のずれを判別するのに、筆者は以下の命題を利用してきた。

西暦x年・平成h年では、xとhに次の関係が必ず成り立つ。

  • xとhは共に偶数、または共に奇数。

逆に言うと、片方が偶数でもう片方が奇数なら、どこかで間違っている。なお、上記命題は必要条件であって十分条件ではない。満たさなければ間違っているが、満たしているから正しいとは限らない。しかし、もっともよくある間違いの1年のずれは防げる。一瞬で判別できるのも大きい。

この判別方法の弱点として、「『共に偶数、または共に奇数』でよかったのか、それとも逆だったか、不安になったらどうするのか」と思う人がいるかもしれない。筆者は今まで以下のように考えて覚えていた(つもりであった)。

西暦x年・昭和s年では、xとsは必ず片方が偶数で片方が奇数となる。昭和生まれの筆者の場合、このことを忘れる心配はない。もし忘れたとしたら、別の問題で手いっぱいとなり、このような些末な問題はどうでもよくなるだろう。したがって、やはり心配はない。ここまでは正しかった。

ここからは考えが不十分だった。元号が変わった西暦x年・平成h年では、昭和の関係と逆転する。では、西暦x年・令和r年はどうなるか。平成の関係と逆転して昭和の関係に戻る、と今までは思っていた。ところがそうではなかった。西暦x年・令和r年では、xとrに次の関係が必ず成り立つ。

  • xとrは共に偶数、または共に奇数。

関係が逆転するかどうかは、新元号の前年の旧元号が偶数か奇数かで決まる。平成元年の前年は昭和63年。奇数なので関係が逆転する。令和元年の前年は平成30年。偶数なので関係はそのまま。

筆者の認識は不完全であった。なぜ何十年も気づけなかったのか。従来の認識で当面の問題は乗り切れたからだろう。認識を改める動機と機会がなかった。個人的にも普遍的にも、そういうことは他にもいっぱいありそうだ。

慣例にないことをする際は用心がいる

報道によると平成に続く新元号の出典候補として、漢籍だけでなく日本の古典も含めるそうである。そのこと自体は否定しない。問題なのは、落とし穴を避ける体制ができているのか不明であることだ。

新元号は日本語である。漢字を使っても中国語として通用する必要はない。しかし、中国語として滑稽で失笑を買うようなものは避けるべきである。今の時代には特にそうだろう。

日本の古典を出典とするのはかまわない。ただし、中国語を知っている人物も制定に加わるべきであろう。もしや政府には、漢籍にくわしい人物であれば中国語を知っているという認識がないのであろうか。

このような懸念が的中する確率は低い。とはいえ、万が一に備えるべき事柄である。報道による限りでは、そういう配慮がなされているのか不明であり心配だ。

座れない原因は、だれにあるのか

以前述べたことについて補足する。

筆者は、早稲田大学が小保方晴子氏の博士号を取り消したことを支持する。しかし同時に、早稲田大学は小保方氏に課程で受け取った費用を返還すべきだった。後からよく読んでみたら博士論文と認められないというのは、まともな課程ではない。

小保方氏の博士号はただちに取り消されたのではなく、論文再提出の機会が与えられた。このことに公平性の確保や温情を感じた人がいるかもしれない。しかし、金を返したくない、組織を守りたいというのが真の動機だと思う。


小保方氏を擁護するわけではない。STAP細胞はあるのかないのか? そういう質問をするから答えが発散してしまう。STAP細胞の研究に予算をつけるべきか否かと問うべきだ。答えは、見込みがなく割に合わないと収束する。

そんなことはない、予算をつけろという考えを全面否定はしない。しかしそういう人達は、なぜ集まって出資しないのだろうか。日本人の1%が千円ずつでも、相当な額になる。

STAP細胞に限らない。自分の賛同するアイデアに大多数が反対するのは、むしろ朗報である。割のいい宝くじを独占できるチャンスが到来したということだからだ。おいしい宝くじを買わない愚かな他人を憐れむならともかく、不満を感じるというのは奇怪である。本心では信じていないとみなされるのが当然であろう。


データのねつ造はあってはならない。では、防ぐにはどうすればいいのだろうか。研究者への倫理教育が決定打とは思えない。それだけでは足りない。差別主義者は悪人だと言い張っても、差別が解消しないのと同じだ。

プレゼンテーションに振り回された側も、変わらなければならない。実態を評価すべきである。もちろん大半の人は研究の評価はできない。しかし、「評価をする人やシステム」を評価すること(メタ評価)、あるいはメタメタ評価はできる。これは研究組織・行政・政治・主権者である国民の役割である。自分は無関係だと逃れることはできない。


いす取りゲームで、座れなかった人がいる。なぜその人が座れなかったのか。その人に大きな原因がある。一方で、なぜ座れなかったのか。参加者全員にすべての原因がある。両方を見なければならない。片方だけしか見ないのは、くさいものにふたをする責任放棄である。

博士になったとしても、ふさわしい待遇の職は乏しい。そういう説明は十分だったのだろうか。大学は博士を養成するよりも、博士課程にともなうポストと金と労働力に関心があったのではないか。人を食うようなことをした結果、それに適応した人物が生み出されてしまったのではないか。

早稲田大学だけに限らない。また、研究者にも限らない。労働力を除けば、法科大学院にも似た構造を感じる。最近、大学人から国の締め付けが厳しいと訴える声が聞こえてくる。しかし、一般の目は冷たい。こういうことに気づいているからだと思う。


小保方氏は研究職をやめて文筆業で身をたてるらしい。小保方氏が現時点で刑事責任を問われていないのは承知しているが、その上でオー・ヘンリーや佐藤優氏の例もある。フィクションである限り、期待できる。

期待できることなど何もない、と言う人がいるかもしれない。しかしそれでは、プレゼンテーションに振り回されるのと同じだ。小保方氏だからといって全てを否定しないのが、実態を評価するということである。そういう態度をとれないことが、不正や差別を生み出しているのではないか。

政治の闇は深い


引用始まり(太字による強調は筆者によるもの。ただし、記事の中で一番大きな文字だったのは事実。)

2019.1.3 (木)読売新聞・朝刊4面
新春対談2019 小泉進次郎・下
「明るさ」指導者の条件

(省略)

橋本(五郎特別編集委員) ジャーナリストにも健全な相対主義が大切です。「正義」は一つではないのです。自分を疑う「適度な懐疑心」も重要です。

小泉(進次郎) 加えて、リーダーには「明るさ」が無条件で必要だと思っています。自分も意識しています。

(省略)

引用終わり


上記引用は本文だけなら、どうということはない。しかし、『「明るさ」指導者の条件』というタイトルは不穏だ。小泉氏が先の自民党総裁選で石破茂氏を支持したこと、石破氏が麻生太郎氏から暗いと揶揄されたこと(「政治家 暗い顔」で検索するとわかる)を考え合わせると見過ごせない。小泉氏が石破氏との間に距離を置いたと印象付ける誰かの意思を感じる。偶然とは思えない。

おそらく小泉氏だけでなく橋本氏もタイトルを事前には知らなかったと思う。知っていたとすれば、明るさが必要と言いながらその発言自体がダークであるとか、取材相手を裏切ったということになってしまう。それに比べればましではあるが、ひどいことに変わりはない。当事者の知らないうちに意図しないメッセージが付加されたことになる。

しかも、誰もうそはついていない。やはり政治には闇を感じる。

話をうのみにしてはいけない

知っている人には当然だが、歴史小説は文学・創作である。史学・史実を下敷きにしているかもしれないが、そのものではない。大河を含むドラマや映画も同じだ。そのことに本来はなんの問題もない。しかし、創作であることを忘れてしまうと問題になる。


日本の戦国時代に、「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」が命を捨てて使命を果たしたという話がある。これは創作だと思う。なぜなら、紀元前に書かれた「史記」に酷似した話があるからだ。

この件に関して Wikipedia では創作だと明言していないが、創作だろうと暗示していると筆者は解釈する。根拠は、「鳥居強右衛門」のページにある下記、およびリンク先にある各記録の性質(『信長公記』は史料として比較的信用できる、など)の記述である。

なお、強右衛門の記録のうち最も古いものは『甫庵信長記』、次いで『三河物語』で、それ以前の『信長公記』などには全く登場しない。

上記だけでは判然としない。しかしリンク先をよく読めば、「それ以前の『信長公記』などには全く登場しない」に隠された意味が分かる。こういうのを「大人の対応」と言うのだろう。この記述であれば、反発する者がいたとしても安易なことはできない。やぶをつつくことになってしまう。

一方で筆者の記事は反発を受けるだろう。金銭的利害関係者よりも、鳥居強右衛門のエピソードに感銘した人に恨まれるはずだ。では、なぜ書いたのか。物事は別の角度から見ると全く違う印象になり得る。文章をよく読むと見方が変わるいい例だと思ったからだ。


話し手は創作をしなくても印象を操作することができる。以前、日本経済新聞にこういう話(あすへの話題「枯れない花」筆者・内館牧子)があった。手元に原文がなくメモからの要約だが、原文を損なってはいないはず。


(要約始まり)

喜寿を迎えたA子さんの誕生会があった。加工した生花を贈られたA子さんが言った。「これ、枯れない花だわ!」

男が言った。「アタシは枯れちゃったけどな、ってか」

その場は一瞬静まり返ったが、A子さんは笑顔で絶妙に対応して拍手に包まれた。その後、男は消えた。初対面の代理出席だったらしい。

(要約終わり)


この女性はろくでなしによく切り返した、というのが一般的な印象だろう。しかし、筆者はこの話に引っかかるものを感じたのでよく読み直した。

違和感のひとつは「初対面」という表現だとわかった。たしかに初対面でこのような言動はひどい。だが、このことは女性が著名な人物であることを示しているのではないだろうか。誰だろうか。

さらに読み直した。偶然かもしれないが、枯れない・枯れちゃった、という表現で「ぬれ落ち葉」という言葉を思い出した。


あくまでも推測で裏付けは取っていないが、この女性は樋口恵子氏だと思う。根拠は以下の通り。

  • 誕生日が新聞記事の日付に近く、つじつまが合う。
  • 誕生年は新聞記事の喜寿と合わない。ただ、本来の喜寿の前に闘病をしていたようだ。先送りしたとすればつじつまは合う。
  • 「初対面の代理出席」ということから、女性は著名人であろう。
  • 初対面の男性から恨まれていた可能性がある。女性が著名人であり、恨まれるような言動をしていたのであれば納得できる。
  • これは直感だが、「枯れない・枯れちゃった」という表現からは「ぬれ落ち葉」というにおいがする。
  • 樋口氏と文章を書いた内館氏は共に放送ウーマン賞を受賞しており、つながりがあってもおかしくない。

もし樋口恵子氏であれば、筆者の見方は90度変わる。文中の男性の言動はひどいが、無差別ではない。樋口氏は「ぬれ落ち葉」という言葉が、男性に対して広く使われるようになるきっかけを作った。それを踏まえれば、どっちもどっちであろう。人によっては180度変わるかもしれない。

筆者の推測は見当違いかもしれない。それも含めて内館牧子氏や樋口恵子氏にも言い分はあるだろう。しかしそれ以上に、くだんの男性にも言い分があるはずだ。なお、そんな昔のことを持ち出すのはおかしいという言い方はやめたほうがいいだろう。評論家として知られる樋口氏の言動を否定することになりかねない。


比較的信用できる媒体とされる新聞であっても、うのみにしてはいけない。当サイトも含め、その他の媒体も同じである。

沖縄に対して、やれることをやってほしい

以前述べたことについて補足する。

筆者の場合、普天間基地の移設先は現時点で名護市辺野古以外に考えられない。一方で、政府が行っている辺野古への移設方針に不満である。これは矛盾しない。

各種世論調査の目的は調査だけではない。よく比較すると分かるが、世論を動かすことも目的としている。それを全面否定はしないが対抗するという意味で、「矛盾」を説明したい。

米軍基地とそれにともなう問題が沖縄県へ偏るのは、地政学上の理由でやむを得ないことだろうか。一次的にはそうかもしれない。しかし、ならばこそ、沖縄へ配慮することが国政の役割であろう。世論の分断に対処する方法がほかにあるだろうか。世論の支持を得ることは、国の防衛そのものでもあろう。では、どういった配慮ができるだろうか。


まず、国は沖縄に対して、少数民族への支配と抑圧の歴史があったことを認めるべきである。すくなくとも、沖縄戦における民間人死亡について、国に原因の一部があったことを明確に認めるべきだ。

最近、沖縄戦での民間人被害について国の賠償責任は認められないという最高裁の判決があった。ただし、結論にいたる理由づけを読めば、国に原因があることを認めている。そうでなければ、まわりくどい論理で国の責任を否定する必要はない。この判示の意味を考えるべきである。

裁判は丁半ばくちではない。司法判断が尊重されるゆえんである、丁寧な過程にも目を向ける必要がある。結論だけに着目するのは、裁判官をツボ振りとみなすのに等しい。

賠償責任を考える必要がなくなったということは、原因の一部があったことを認める支障もなくなったということである。軍が組織的に自決を命令したと認めよと言っているのではない。最高裁の判示を明確に追認せよと言っているだけである。判決を好機として、やれることをやってほしい。

なお、自決が強要されたのか違うのかについては、別途記事を書きたい。


政策としては、日米地位協定の見直しになる。これは全国知事会からも提言されている。すべてを直ちに見直すのは無理かもしれない。それでも、できることはあるだろう。

現安倍政権は『やってる感』をアピールするのが上手いとされているようだが、この件に関しては検討すらしているように感じられない。ということは、なにもしていないのであろう。そういう批判を的外れとするのであれば、率直に国民と対話してほしい。


当時首相となる鳩山氏は普天間基地を沖縄県外に移設するという、できないことを約束してしまった。このことは批判されるべきである。しかし、できることをやらないというのも、同様に批判されるべきだろう。強行対応を許容できるのは、万策尽きた後である。やれることをやっていないから、全国的にも基地移設の支持が足りないのではないだろうか。

言い残しをしたくない

これが最後という覚悟で、昔のゲームをやってみる。あわせて記録も残そうと思う。

なぜこういう気持ちになったのだろうか。残りの人生をあせる気持ちがあるのかもしれない。ゲームにハマったことを後悔する気持ちがあるのかもしれない。よく分からないがやれるだけやってみる。

なぜそういう気持ちになったのか、すこしわかってきた。死期を覚ったわけではないのだが、同級生の事故ではない訃報に接するなどして思うところはある。そういうことがおかしくない年齢になった。

終活とか遺作と言うのには大げさで早すぎるのだが、やり残しや言い残しをゼロに近づけたい。ゼロは無理でも、やれるだけのことをやることに意味はある。

とは言え時間には限りがあるので、選択と集中をせざるを得ない。さらにレトロゲームリストの整理・追加・復活をするかもしれない。理解しがたい選択があったら、すりこみなど筆者の思い入れの問題だと思ってもらいたい。


今後はゲームと関係のない雑記にも力を入れていきたい。そんなものに興味はないという意見に従うことはしない(そもそも聞く耳を持っていない)が、配慮はする。「カテゴリーを選択」から「ゲーム」を選ぶなどで対応してほしい。