「雑記」カテゴリーアーカイブ

慣例にないことをする際は用心がいる

報道によると平成に続く新元号の出典候補として、漢籍だけでなく日本の古典も含めるそうである。そのこと自体は否定しない。問題なのは、落とし穴を避ける体制ができているのか不明であることだ。

新元号は日本語である。漢字を使っても中国語として通用する必要はない。しかし、中国語として滑稽で失笑を買うようなものは避けるべきである。今の時代には特にそうだろう。

日本の古典を出典とするのはかまわない。ただし、中国語を知っている人物も制定に加わるべきであろう。もしや政府には、漢籍にくわしい人物であれば中国語を知っているという認識がないのであろうか。

このような懸念が的中する確率は低い。とはいえ、万が一に備えるべき事柄である。報道による限りでは、そういう配慮がなされているのか不明であり心配だ。

座れない原因は、だれにあるのか

以前述べたことについて補足する。

筆者は、早稲田大学が小保方晴子氏の博士号を取り消したことを支持する。しかし同時に、早稲田大学は小保方氏に課程で受け取った費用を返還すべきだった。後からよく読んでみたら博士論文と認められないというのは、まともな課程ではない。

小保方氏の博士号はただちに取り消されたのではなく、論文再提出の機会が与えられた。このことに公平性の確保や温情を感じた人がいるかもしれない。しかし、金を返したくない、組織を守りたいというのが真の動機だと思う。


小保方氏を擁護するわけではない。STAP細胞はあるのかないのか? そういう質問をするから答えが発散してしまう。STAP細胞の研究に予算をつけるべきか否かと問うべきだ。答えは、見込みがなく割に合わないと収束する。

そんなことはない、予算をつけろという考えを全面否定はしない。しかしそういう人達は、なぜ集まって出資しないのだろうか。日本人の1%が千円ずつでも、相当な額になる。

STAP細胞に限らない。自分の賛同するアイデアに大多数が反対するのは、むしろ朗報である。割のいい宝くじを独占できるチャンスが到来したということだからだ。おいしい宝くじを買わない愚かな他人を憐れむならともかく、不満を感じるというのは奇怪である。本心では信じていないとみなされるのが当然であろう。


データのねつ造はあってはならない。では、防ぐにはどうすればいいのだろうか。研究者への倫理教育が決定打とは思えない。それだけでは足りない。差別主義者は悪人だと言い張っても、差別が解消しないのと同じだ。

プレゼンテーションに振り回された側も、変わらなければならない。実態を評価すべきである。もちろん大半の人は研究の評価はできない。しかし、「評価をする人やシステム」を評価すること(メタ評価)、あるいはメタメタ評価はできる。これは研究組織・行政・政治・主権者である国民の役割である。自分は無関係だと逃れることはできない。


いす取りゲームで、座れなかった人がいる。なぜその人が座れなかったのか。その人に大きな原因がある。一方で、なぜ座れなかったのか。参加者全員にすべての原因がある。両方を見なければならない。片方だけしか見ないのは、くさいものにふたをする責任放棄である。

博士になったとしても、ふさわしい待遇の職は乏しい。そういう説明は十分だったのだろうか。大学は博士を養成するよりも、博士課程にともなうポストと金と労働力に関心があったのではないか。人を食うようなことをした結果、それに適応した人物が生み出されてしまったのではないか。

早稲田大学だけに限らない。また、研究者にも限らない。労働力を除けば、法科大学院にも似た構造を感じる。最近、大学人から国の締め付けが厳しいと訴える声が聞こえてくる。しかし、一般の目は冷たい。こういうことに気づいているからだと思う。


小保方氏は研究職をやめて文筆業で身をたてるらしい。小保方氏が現時点で刑事責任を問われていないのは承知しているが、その上でオー・ヘンリーや佐藤優氏の例もある。フィクションである限り、期待できる。

期待できることなど何もない、と言う人がいるかもしれない。しかしそれでは、プレゼンテーションに振り回されるのと同じだ。小保方氏だからといって全てを否定しないのが、実態を評価するということである。そういう態度をとれないことが、不正や差別を生み出しているのではないか。

政治の闇は深い


引用始まり(太字による強調は筆者によるもの。ただし、記事の中で一番大きな文字だったのは事実。)

2019.1.3 (木)読売新聞・朝刊4面
新春対談2019 小泉進次郎・下
「明るさ」指導者の条件

(省略)

橋本(五郎特別編集委員) ジャーナリストにも健全な相対主義が大切です。「正義」は一つではないのです。自分を疑う「適度な懐疑心」も重要です。

小泉(進次郎) 加えて、リーダーには「明るさ」が無条件で必要だと思っています。自分も意識しています。

(省略)

引用終わり


上記引用は本文だけなら、どうということはない。しかし、『「明るさ」指導者の条件』というタイトルは不穏だ。小泉氏が先の自民党総裁選で石破茂氏を支持したこと、石破氏が麻生太郎氏から暗いと揶揄されたこと(「政治家 暗い顔」で検索するとわかる)を考え合わせると見過ごせない。小泉氏が石破氏との間に距離を置いたと印象付ける誰かの意思を感じる。偶然とは思えない。

おそらく小泉氏だけでなく橋本氏もタイトルを事前には知らなかったと思う。知っていたとすれば、明るさが必要と言いながらその発言自体がダークであるとか、取材相手を裏切ったということになってしまう。それに比べればましではあるが、ひどいことに変わりはない。当事者の知らないうちに意図しないメッセージが付加されたことになる。

しかも、誰もうそはついていない。やはり政治には闇を感じる。

話をうのみにしてはいけない

知っている人には当然だが、歴史小説は文学・創作である。史学・史実を下敷きにしているかもしれないが、そのものではない。大河を含むドラマや映画も同じだ。そのことに本来はなんの問題もない。しかし、創作であることを忘れてしまうと問題になる。


日本の戦国時代に、「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」が命を捨てて使命を果たしたという話がある。これは創作だと思う。なぜなら、紀元前に書かれた「史記」に酷似した話があるからだ。

この件に関して Wikipedia では創作だと明言していないが、創作だろうと暗示していると筆者は解釈する。根拠は、「鳥居強右衛門」のページにある下記、およびリンク先にある各記録の性質(『信長公記』は史料として比較的信用できる、など)の記述である。

なお、強右衛門の記録のうち最も古いものは『甫庵信長記』、次いで『三河物語』で、それ以前の『信長公記』などには全く登場しない。

上記だけでは判然としない。しかしリンク先をよく読めば、「それ以前の『信長公記』などには全く登場しない」に隠された意味が分かる。こういうのを「大人の対応」と言うのだろう。この記述であれば、反発する者がいたとしても安易なことはできない。やぶをつつくことになってしまう。

一方で筆者の記事は反発を受けるだろう。金銭的利害関係者よりも、鳥居強右衛門のエピソードに感銘した人に恨まれるはずだ。では、なぜ書いたのか。物事は別の角度から見ると全く違う印象になり得る。文章をよく読むと見方が変わるいい例だと思ったからだ。


話し手は創作をしなくても印象を操作することができる。以前、日本経済新聞にこういう話(あすへの話題「枯れない花」筆者・内館牧子)があった。手元に原文がなくメモからの要約だが、原文を損なってはいないはず。


(要約始まり)

喜寿を迎えたA子さんの誕生会があった。加工した生花を贈られたA子さんが言った。「これ、枯れない花だわ!」

男が言った。「アタシは枯れちゃったけどな、ってか」

その場は一瞬静まり返ったが、A子さんは笑顔で絶妙に対応して拍手に包まれた。その後、男は消えた。初対面の代理出席だったらしい。

(要約終わり)


この女性はろくでなしによく切り返した、というのが一般的な印象だろう。しかし、筆者はこの話に引っかかるものを感じたのでよく読み直した。

違和感のひとつは「初対面」という表現だとわかった。たしかに初対面でこのような言動はひどい。だが、このことは女性が著名な人物であることを示しているのではないだろうか。誰だろうか。

さらに読み直した。偶然かもしれないが、枯れない・枯れちゃった、という表現で「ぬれ落ち葉」という言葉を思い出した。


あくまでも推測で裏付けは取っていないが、この女性は樋口恵子氏だと思う。根拠は以下の通り。

  • 誕生日が新聞記事の日付に近く、つじつまが合う。
  • 誕生年は新聞記事の喜寿と合わない。ただ、本来の喜寿の前に闘病をしていたようだ。先送りしたとすればつじつまは合う。
  • 「初対面の代理出席」ということから、女性は著名人であろう。
  • 初対面の男性から恨まれていた可能性がある。女性が著名人であり、恨まれるような言動をしていたのであれば納得できる。
  • これは直感だが、「枯れない・枯れちゃった」という表現からは「ぬれ落ち葉」というにおいがする。
  • 樋口氏と文章を書いた内館氏は共に放送ウーマン賞を受賞しており、つながりがあってもおかしくない。

もし樋口恵子氏であれば、筆者の見方は90度変わる。文中の男性の言動はひどいが、無差別ではない。樋口氏は「ぬれ落ち葉」という言葉が、男性に対して広く使われるようになるきっかけを作った。それを踏まえれば、どっちもどっちであろう。人によっては180度変わるかもしれない。

筆者の推測は見当違いかもしれない。それも含めて内館牧子氏や樋口恵子氏にも言い分はあるだろう。しかしそれ以上に、くだんの男性にも言い分があるはずだ。なお、そんな昔のことを持ち出すのはおかしいという言い方はやめたほうがいいだろう。評論家として知られる樋口氏の言動を否定することになりかねない。


比較的信用できる媒体とされる新聞であっても、うのみにしてはいけない。当サイトも含め、その他の媒体も同じである。

沖縄に対して、やれることをやってほしい

以前述べたことについて補足する。

筆者の場合、普天間基地の移設先は現時点で名護市辺野古以外に考えられない。一方で、政府が行っている辺野古への移設方針に不満である。これは矛盾しない。

各種世論調査の目的は調査だけではない。よく比較すると分かるが、世論を動かすことも目的としている。それを全面否定はしないが対抗するという意味で、「矛盾」を説明したい。

米軍基地とそれにともなう問題が沖縄県へ偏るのは、地政学上の理由でやむを得ないことだろうか。一次的にはそうかもしれない。しかし、ならばこそ、沖縄へ配慮することが国政の役割であろう。世論の分断に対処する方法がほかにあるだろうか。世論の支持を得ることは、国の防衛そのものでもあろう。では、どういった配慮ができるだろうか。


まず、国は沖縄に対して、少数民族への支配と抑圧の歴史があったことを認めるべきである。すくなくとも、沖縄戦における民間人死亡について、国に原因の一部があったことを明確に認めるべきだ。

最近、沖縄戦での民間人被害について国の賠償責任は認められないという最高裁の判決があった。ただし、結論にいたる理由づけを読めば、国に原因があることを認めている。そうでなければ、まわりくどい論理で国の責任を否定する必要はない。この判示の意味を考えるべきである。

裁判は丁半ばくちではない。司法判断が尊重されるゆえんである、丁寧な過程にも目を向ける必要がある。結論だけに着目するのは、裁判官をツボ振りとみなすのに等しい。

賠償責任を考える必要がなくなったということは、原因の一部があったことを認める支障もなくなったということである。軍が組織的に自決を命令したと認めよと言っているのではない。最高裁の判示を明確に追認せよと言っているだけである。判決を好機として、やれることをやってほしい。

なお、自決が強要されたのか違うのかについては、別途記事を書きたい。


政策としては、日米地位協定の見直しになる。これは全国知事会からも提言されている。すべてを直ちに見直すのは無理かもしれない。それでも、できることはあるだろう。

現安倍政権は『やってる感』をアピールするのが上手いとされているようだが、この件に関しては検討すらしているように感じられない。ということは、なにもしていないのであろう。そういう批判を的外れとするのであれば、率直に国民と対話してほしい。


当時首相となる鳩山氏は普天間基地を沖縄県外に移設するという、できないことを約束してしまった。このことは批判されるべきである。しかし、できることをやらないというのも、同様に批判されるべきだろう。強行対応を許容できるのは、万策尽きた後である。やれることをやっていないから、全国的にも基地移設の支持が足りないのではないだろうか。

政治は外国人材受け入れの副作用から逃げるな

以前述べたことについて補足する。

筆者は本格的な移民政策であっても賛成する。しかし移民政策であろうと外国人材受け入れと呼ぼうと、大きな副作用がともなう。他国の状況からも明らかだ。政府と立法は真正面から取り組む必要がある。出入国管理及び難民認定法の改正だけでは足りない。外国人の受け入れに関する基本法を制定し、国が副作用の解消に最終的な責任を持つことを明らかにすべきである。


最近、京都ではバスの混雑による不満が高まっているそうだ。原因の一つに、外国人観光客の急増が指摘されている。日常生活に不便が生じている人の裏には、外国人観光客によって潤う人もいるであろう。そうでなければ、報道されるくらいになるまで解決されないことはない。外国人観光客には参政権などないのだから。

外国人材受け入れにも同じ構造がある。外国人材受け入れで潤う人たちに自主的な対応を期待するというのは、狼に羊の番をさせるのと同じである。言い過ぎではない。現に外国人実習生の問題が起こっている。利益は自分だけのもの、副作用による損失は社会全体の負担とするのは疑いない。そのようなことは許さずに、応益負担させるべきだ。


この件に関しては、与野党ともに懸念を表明しているが、頼りないのは同じである。このまま進むと外国人を差別することはいけないという美名のもとに、副作用は地域社会におしつけられかねない。それではかえって差別主義の温床になってしまう。

外国人への差別がいけないのは当然である。しかし、そのような主張は、主張それ自体を達成したいのではなく、別の意図があってなされるのかもしれない。正しい主張をする者が正しい存在とは限らない。

われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない。(「ラ・ロシュフコー箴言集」、二宮フサ訳、岩波文庫p11)

差別は悪であり、差別主義者の行動には制限を加えないといけない。しかし、差別が生み出される責任は共同体全員にある。差別主義者は悪人だと言い張っても解決しない。他国を見ればわかるだろう。むしろ、そういう正しい主張こそ吟味がいる。このことを説明する例があるので、別途記事を書きたい




憲法改正をしたいなら、身を切ってほしい

以前述べたことについて補足する。

憲法9条改正に賛成か、反対か。この問いかけのしかた自体に疑問を感じるのだが、それを承知で答えると『桑畑三十郎』である。具体的には、二つの条件が満たされれば賛成する。まず、一部改憲派と一部護憲派への反論から始めたい。


現行憲法は押しつけ憲法であるから改憲すべき、という意見には反対する。なぜか。

アメリカを主とする戦勝国が押しつけたという主張を否定はしない。日本人も関与してはいるが、それは従であって主ではない。そして押しつけた理由は、戦勝国の利益のため、すくなくとも害しないためであろう。

しかし、押しつけられたのは誰なのか。誰が困ったのか。旧体制の不当利得者であって、一般の国民ではない。すくなくとも筆者は、現行憲法による苦痛が耐えがたいので他国へ逃れるなど考えられない。

ラグビーは熱意によるものとはいえ、ルール違反から生まれた。だからといって、ラグビーを否定する必要はない。銀行業は預かり資産の流用、つまり使い込みから生まれた(「銀行 金細工」で検索するとわかる)。だからといって、銀行を否定する必要はない。

したがって、押しつけ憲法だからというのは変える理由にならない。また、疑問を感じなくても恥ではない。ラグビーにおいてルールを守ったり、銀行員の使い込みが裏切りと犯罪であることに疑問を持つだろうか。


一方で、現行憲法は改正の必要なしという意見にも反対する。条文と実態の差が、あまりにもかけ離れているからだ。そして国民の多くは、自衛隊の存在という実態を支持している。このことは9条改正絶対反対という人達が、憲法改正手続きに抵抗することからも明らかである。

9条の条文を厳密に解釈して実態のほうを変えるというのも、一つの尊重すべき意見である。しかし、そういう意見を採るかどうかは国民とその代表が話し合いで決めることだ。自分たちが正しいと主張する人だけで決めるものではない。それが憲法で定める国民主権というものだ。

憲法は9条だけではない。国民は生命と生活に権利を有し、それを守るのは国の義務である。改正を認める条文もある。憲法を守るのであれば、改正手続きも認めなければならない。そうでなければおかしい。護憲派が憲法を守らないというのは、これ以上ない矛盾だろう。


ではあらためて、憲法9条改正の報道されている自民党案に賛成か、反対か。今のところ反対する。シビリアンコントロールが足りない。自民党案でもシビリアンコントロールはうたわれている。しかし、細部は白紙委任してくれと言っている。心もとない。

自衛隊は安全と安心をもたらすというのが、自衛隊を支持する理由であろう。ならば、安心できる条文とすることが、賛成するための第一の条件となる。以下は一案である。

「(今回改正で追加した)前項は、10年ごとに国民投票で継続か廃止かを問う。」

言い換えるとこうなる。自衛隊の存在を現時点では認める。しかし、話はこれで終わりだというのは認めない。これから先、自衛隊と防衛政策がどうなるかの保証はないのだから。

自衛隊の変質を防ぐためには、国民が直接に、合憲性を定期的に判断するのが望ましい。三権には長年月にわたって9条と自衛隊の問題を、逃避したり、こじらせたり、ごまかしたりした実績があり任せておけない。


もし、改正後10年あるいはそれ以降に廃止されたらどうなるのか。政府の説明通りであれば、現状と変わらない。憲法改正によって自衛隊の実態が『なにも変わらない』のであれば、不都合はない。防衛政策の安定性を損なうおそれがあり好ましくないというのであれば、政府の説明は間違っていることになる。

自衛隊員の士気に関わるという反論があるとしたらおかしい。自衛隊は政府によるコントロールには従うが、国民によるコントロールには従いたくないということになってしまう。


筆者は素性を明かしていない。日本人かどうかもわからない者は無視せよという意見もあるだろう。これについては、押しつけ憲法は改憲すべきという意見に対してと同様の反論をしてもいいのだが、むしろ歓迎する。

意見というのは意見自体だけではなく、提起した人物・集団についても吟味すべきというのは一つの考えである。しかしそうであるならば、自民党の憲法改正案についても同じだろう。

国会において野党が、安倍首相だから憲法改正論議に応じないというのは困る。しかし国民が、安倍首相だから憲法改正に賛成できないというのはかまわない。賛成するための第二の条件は、安倍首相が平和主義の尊重を身を切って示すことである。ためらってでもいい。以下のように言えるだろうか。

「自衛隊は日本と同盟国への軍事行動を断念させるための抑止力として存在する。結果として、軍事行動が永久に起こらないことが理想である。この文脈において、日本は永久に敗戦国であることを望む。」

本来は集団的自衛権の行使を可能とする前に言うべき、ならびに言わせるべきことだが、まだ遅くはない。言えないとしたら、何をしたいのだろうか。




2018年10月30日、31日の国会首相答弁について

最近国会での首相答弁についてコメントする。答弁内容は、読売新聞10月31日(水)および11月1日(木)朝刊を参考にした。

憲法改正

憲法順守義務は、憲法改正について検討、主張することを禁止する趣旨のものではない。

おおむね首相答弁に賛成する。憲法改正を唱える首相の姿勢を問うことは間違っていない。しかし、安倍首相とは話し合いにも応じないというのは困る。

野党にはこのような主張を一切するなとは言わないが、改正内容についての議論もしてほしい。

片山地方創生相の疑惑

片山さつき氏は初めて議員となった際にも、不相応な資産を持っていることを指摘されていた。その時は正当な資産運用の結果であるようなことを言っていたが、今回の件を考えると疑わしく思える。片山氏はかつてうやむやになった件について、あらためて詳細に説明すべきである。

古い書籍だが、『ぼったくり税金の大問題―大蔵省の「犯罪」から税務署員のウラ手口まで・宝島社』によると、出向先の税務署長を含む一部大蔵官僚には、たかりの体質があったそうである。

片山氏については、わからない。上記書籍の信ぴょう性も断言はできない。しかし最近、大蔵省(現財務省)同期にろくでなしがいたことが判明した。このことは上記書籍の信ぴょう性を増している。ろくでなしを生み出した文化の影響を受けて同じ空気を吸ったのであるから、疑いを抱くのは当然である。

税務署長となった出向先は分かっている。とは言え、筆者には調査・裏付けをする気力はない。代わりに別件で、片山氏の資質を問いたい。


余裕があれば、別途くわしい記事を書きたい。




2018年10月29日の国会首相答弁について

最近国会での首相答弁についてコメントする。答弁内容は、読売新聞10月30日(火)朝刊を参考にした。

憲法改正

自衛隊の明文化について、報道されている自民党案のままであれば賛成できない。改正したいのであれば、賛成できるように修正してほしい。

9条改正絶対反対ではない。一方で、押しつけ9条の改正を悲願とするわけでもない。国民の大半もそのはずだ。たしかに民主主義においては、少数意見も尊重されなければいけない。しかし、多数派が判断に迷う選択肢しか示されないのも奇怪なことである。

もっとも、賛成できるように修正してほしいという反応は想定済みだろう。ハイボールテクニックに惑わされないように、あらかじめ賛成できる条件を考えておく

沖縄の基地負担軽減

地元の理解を得る努力を続けながら

努力が足りない。

普天間基地の名護市辺野古への移設には賛成する。だからといって強引に進めるべきではない。法律上問題ないというのは、法律を盾にするということである。まずは感情的な対立を解消する努力をしてほしい。

外国人材受け入れ

いわゆる移民政策を採ることは考えていない。

筆者は本格的な移民政策であっても賛成する。したがって、外国人労働者受け入れ拡大についても賛成する。しかし、やり方が気に入らない。

今回の政策は、試験的・限定的ではあるが移民政策であろう。それを認めないのはなぜか。政府には副作用の負担をまぬがれたい、調整すらしたくないという意図を感じてしまう


余裕があれば、別途くわしい記事を書きたい。




仕組み債に手を出してはいけない理由

仕組み債の危険性について警告するサイトは多くある。ただ、警告を必要とする人たちにとっては、正確であるがゆえに分かりづらいかもしれない。そこで、大胆なたとえ話で説明する。


「日本経済サイコロ指数(カモ)」という、ばくちがあるとする。サイコロを1個振り、当たりか外れかを決める。当たると2倍になり、外れると掛け金没収。

ここからがとんでもない。当たりは6が出た時だけ。1・2・3・4・5は外れだ。胴元が圧倒的に有利になっている。しかも胴元は6が出たとしても損はしない。どういうことか。

名前のよく似た「日本経済サイコロ指数」という別のばくちがある。「~(カモ)」と違うのは、当りと外れの決め方。1・2・3が外れで、4・5・6が当たりとなる。胴元はこれで保険を掛けている。

胴元にとっては、1・2・3は差し引きゼロ、4・5は2倍、そして6でも差し引きゼロとなる。サイコロを振るたびに、三分の一の確率で2倍になる。損になることは決してない。実においしい。

こんな胴元有利のばくちに手を出す人はまずいない。しかし、仕組み債を購入するのはこれと同じことなのだ。


実際の仕組み債ではサイコロではなく、「日経平均株価が~の時点までに~円に到達する」などの確率で決める。そうなると妥当性を判断できずに、丸め込まれてしまうのだろう。

それと、たとえ話では「三分の一の確率で2倍になる」としたが、実際の販売者側はほぼ確実に安定した利益を得られるはずだ。保険の手段に多様性があるからだ。

たとえ話は極端すぎるという反論もあるだろう。そのとおりかもしれないし、そうでないかもしれない。販売者側が仕組み債の収支実績をわかりやすく公表すれば、はっきりする。購入者がどれだけ儲けたのかの実績も教えてほしい。仕組み債の宣伝にもなることを、なぜしないのか。公表しないことは、なにを意味するのか。


一見すると有利な条件は、罠のえさかもしれない。相手はどうやって利益を得るのだろうか。よく考えよう。